炭坑記録画の数々
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学生(2)
昭和33~38年頃

学生

 ヤマの児童は満六歳から入学するが 尋小四年を卒業するのが関の山。高小など稀、それも丗十年代には見うけず。ヤマの幹部役人(職員)にもチラホラ、中学など坑長の坊ちゃん以外には見えず。当時ヤマばかりでなく農村の人でも、貧乏人の子が半端学問をすると労働仕事を厭い怠け者になる、且又上級学校に進む人の道づれになるばかり、と言うており、学校するよりカクゴーせよ、石板買うよりジバン買えなどの言葉が流行しており、余り学校に関心をもっておらない様であった。
 先生は馬の尻を叩く竹根のムチを持って時々振あげるから怖い事、朝遅刻しても立番一時間、総て厳罰主義。従ってヤマの児童は時々サボルけれども、親たちは余りやかましくも言わない放任主義であった。
 K坑から通学も三キロ以上ある。夏は休暇が永いのでよいが冬は惨めであった。外套など着ている者は十人に一人位。赤毛套を持つ者も稀れ。ネルの布を五、六尺二重に折って頭から被り風雪を防いでいた。足袋も手製で紐がホドケる。堅く結ぶと之又ホドけぬ。下駄(サシバ)よく緒が切れる。路は狭く馬車が通るので凸凹が多い。
 雑嚢は明治丗四、五年頃から見え、それまではフロシキで、革カパ(バ)ンは雨夜の星。
 (月謝)授業料
 ●尋常小学 金十二銭(四年) 但シ兄弟二人以上 一入八銭
 ●高等小学 金参拾銭(四年)
 ●中学校  金参円  (五年)
 ●高等小から袴着用 男子は制帽 綿和服 鉄砲袖
           女子は薩摩袖 エビ茶袴 女学校も同
 ●中学生は小倉地の制服制帽 白の紐付脚絆に革靴 弁当はクリモノ丸形 空の時は莱入を逆に重ね細くなるが路を急ぐとカラカラと鳴る。

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