炭坑記録画の数々
ヤマの暮らし

ヤマの青年組
昭和39~42年頃

ヤマの 青年組。男子だけ。若手組。わかいもん。

明治後期月産五千屯以上出炭するヤマには青年団を組織しておる処もあった。それは人事係長に理解のある社会智識のまさったのが おるヤマだけであった。K坑には明治四十一年に青年団が誕生し 提灯には 實践会と印して夜だけ美しかった。ヤマの若手組ができると 何となく規律が正しくなった。わかい人だちの思想善化にヤクたった事は申すまでもない。しかしヤマの青年組は永続せず提灯がスコシ古くなるころには崩壊する事が多かった。それは農村や町家とは違い各々業務が異なるので、採炭休業日でも全員集合ができない 平素の作業に疲労が太い。移動坑夫が多いなどで。(一二番方があったり。)奉仕作業などできないからであった。
当時の服装ネルのシャツ、袷、紺のアツシ、シカノマキをしておる寒がりや。将校マント(ヒキマワシ)は明治末から大正初期ヤマにはあまり流行せず。(夏は浴衣(白地))メルヤス類もあったがヤマで見らず。 

蛇足   帯オビ、兵子おび、ス(シ)コギ白色ときまっていた。
明治四十五年九月十三日(大正元年)
明治天皇御大葬祭の時、喪章より黒色となり 現今に至る。


青年は十五才から一人前であった、農家も同じ
提灯、うまのり、ゆみはり、

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