炭坑記録画の数々
運搬(坑外)、選炭

明治32年頃麻生上三緒炭坑
昭和42年1月

 明治三十二年頃の西方(嘉麻川堤)から見た麻生上三緒(かみみお)炭鉱(昭和三十九年閉山)(作兵衛氏が)初めに親とともに移住したヤマ)。明治二十七年九月に開坑(シバハグリ)し、(同二十九年開坑の)山内坑と同じ、麻生太吉氏のドル箱であった。
 坑主が悩む石炭輸送は、芳雄(現飯塚市)まで約三㌔ある複線の車路で、馬に曳かせていた。一回につき(馬は炭車)七台で二㌧半余り運び、当時の貨車で八㌧運び出すには約三十台要ったという。山内坑も大隈町(現嘉麻市)の新野氏が数十頭の馬を使っていて、馬車納屋と呼ばれていた。
 明治三十二年には、三井山野炭坑(現嘉麻市)が上三緒までの二㌔余りに車路を作った。それから芳雄までは共同の線道であった。明治三十五年、九鉄(九州鉄道)開通により、馬車は追放された。
 昔のヤマの坑主が倒産するのは、大事故以外では、運送不便や坑内湧水多量により、出費が膨大になることが原因であった。(販売価格が決まる)石炭のカロリーや(採掘しにくい)低層もあるが、それは第二の原因であった。



※シバハグリ 炭坑を初めて開発すること。
※坑主    炭坑経営者。

<<前の記録画  次の記録画>>

12|3|45678910| 次の10件>>

3/22