炭坑記録画の数々
縁起、迷信、禁忌

ヤマと狐(医師と見舞い客)
昭和39~42年頃

 明治三十三年春の頃、K坑(明治二十八年にシバハグリ(開削開始)した、麻生上三緒炭坑。今飯塚市(元笠松村、明治四二年まで))の一坑夫が、ガスケ(ガス気)で火傷し、自宅で療養中大珍事を体験した。
ある夜中に突然大勢の見舞客が医師を二人も同行して、ドヤドヤと訪れた。亭主の重体に看護疲れの女房は、見舞客をヤマの役人、幹部有志者と思ったらしい。二十人からの来客には女も混じり、幼児を抱いておるのも二、三人いて、ご丁寧に慰め、言葉を尽くし、家族を安心させ、狭い四畳半の家にギッシリ詰めていたと言う。
やがて医師はソロソロ包帯を解き、治療にかかった。患者は時々悲鳴をあげた。客は「治るのじゃから、少しは我慢しなさい」と言って、患者の皮を剥いていた。永くかかって裸にして、東天の白けぬうちに煙の如く消え去った。その時患者は氷のように冷え、すでに息絶えていた。
女房は驚いて、大声で泣き叫んだ。近所の人も驚いて集まった。早速、知らせで、炭坑の取締りや坑医も大勢駆けつけた。患者はスッ裸にされノッペラボウ、正視できぬまでに皮膚をむしられていた。これは野狐の仕業と判明し、ヤマの人たちは歯ぎしりして、地団駄踏んで残念がったが、何分姿の見えない魔物ゆえ、捕らえる術がなかった。
ああ、何たる不幸な一家であろうか。女房もかねてより弱視で、亭主の弟二十才も全盲であった。他に四才の女児がおった。ランプは暗い。この弱みにつけこんだ、悪狐のたぐい。おのれ憎い狐奴−と、ヤマをにらんで溜息つき、無念の涙止まらず、チクショウから命とられた無情のものがたり。
K坑は深山でなくも、周囲は山林であり狐は多かった。西欧では二十世紀の文明開化の頃に、筑豊のヤマの住宅、密集納屋で、こんな怪奇な事件が起きるとは、ちょっと眉唾ものだが、実際にあったこことだから致し方ない。
狐は火傷のヒフ、疱瘡のトガサを好むと言う。

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