炭坑記録画の数々
ヤマの子どもたち

ヤマの学生
昭和39~42年頃

 明治三十年、三十五年頃のヤマの学生。ヤマ(坑夫)の子供は高等小に入学せず、できず、尋常小卒業が多かった。それがよい方。
 雑嚢は明治三十三年頃よりお目見えした。尋常小学校には数年遅れてお目見えした。
 尋常小学の四年間は男女が同じ教室で、授業料十二銭、兄弟二人以上で八銭かかった。尋常科には画科がない。絵を描けば立ち番(怒られて立たされた)。
 高等小学の四年間は男女別の教室で、男女とも袴を着用。月謝は三十銭。男子は制帽があった。
 中学の五年間は、男子だけ制服(小倉織)、帽子、脚絆、靴を着用。短い上衣も着用した。月謝は三円。女学校は嘉飯地区にはなかった。
 
 弁当は10㌢ぐらいの丸型の刳りもので、空になれば菜入れを逆にして(入れて)袋は小形になるが、走るとガラガラなって揺れる、厄介なものであった。





※高等小 旧制高等小学校。尋常小学校を修了した者を対象に、さらに高度な教育を施す。義務教育ではない。
※尋常小 旧制尋常小学校。満6歳以上の児童に初等普通教育の義務教育を施す。
※雑嚢  肩からかける布製のカバン。
※中学  旧制中学で高等普通教育を施す。現在の高等学校に相当。
※嘉飯地区 現在の飯塚市、嘉麻市、嘉穂郡。

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