炭坑記録画の数々
運搬(坑内)

ヤマと石炭と貨車
昭和41年5月

ヤマと…石炭と…貨車。 明治、大正、(明治廿八年飯塚駅のできた頃 田川市伊田にも行橋から開通した)
あえて国鉄の歴史(キロク)をならべる必要もないが、筑豊線はヤマのために、できたのであるから記しておく。明治廿二年、若松、直方間開通当時、筑豊興業鉄道会社であり 同三十年より九州鉄道株式会社と合併。同二十八年飯塚、碓井、同三十一年大隈、丗四年上山田、一方天道、長尾(桂川)丗五年山野、丗六年田川以下略、石炭車は八屯積 明治後期には上部に木板増築し十五屯積、現今終戦後木材なし 改造を重ねて十七屯積。明治、大正は 連結は鎖(チェン)「チン」で両方からドロバーにかける式であって、一方を上部にハネあげておきキノコ形(バー)とバーが接触した瞬間にハッカー(鉤(カギ)に)かける、機敏な動作がいった。
(九管 小倉工場にて)
結鎖 八屯貨車は圣32㍉丸鉄であった 十五屯は35又は38㍉ マイルドスチール極軟鋼ヨーキシヤと言う良質の錬鉄製、鍛冶工に技術がいった。二個つヾりで総て横でワカシつける、完成品の検査も厳格であった。(当時吋)菌キノコ形バー(25㌢以上)も錬鉄製で大型スチームハンマーで作る 何れも鍛冶工泣かせの作業であった。チンをかけるハッカー附ドロバーも錬鉄製、これもバーと同じ内部に平鉄鋼のスプリングがつけてあり 何れもネジどめてあった。(鍛冶工はスチームハンマーをハムロと言う)

(筑豊線)、全九州 大正十四年七月廿日。(本土は七月十七日。) 自動連結器と取かえられた。「これによって連結手の死傷者が皆無になった、バーに挟まれていたので。」

自動連結器の登場によって安全迅速作業になり。且つ鋳鋼であるから製作も簡単になった。

明治丗四年頃まで 主要各駅で発車前五分リーン、チャンリンリンと鈴(手振)を鳴らしていた。

明治時代筑豊線は石炭貨車の後尾に客車が三、四両くっつけてあって客車も小型で各戸扉が五個も両方にあり((コシカケ)に)ゴザがしいてあった

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