炭坑記録画の数々
その他ヤマの仕事

火番
昭和39~42年頃

 明治中後期の火番。(火番は)大正後期には廃止された。ヤマによっては、明治三十二年頃より坑内に火番があったが、それは稀で少なかった。ガス気がないヤマでは、昭和終戦後も(裸火で引火しやすい)カンテラを用いていた。
 火番は、老坑夫のおっさんがあてられ、安全灯の掃除や煙草のサービスをしていた。安全地帯の捲立近くにあるから、お客は多く、タバコは一人に五、六服ぐらい摘んで渡す。煙管(キセル)は三個紐付きで(火番に)備えてある。来た人は、「番尻、番尻(順番の最後)」とやかましい。キザミ(タバコの)ナデシコ(銘柄)は五匁(約1.3g)で三銭ぐらいの最下品。カンテラから安全灯に変わった当初は、その不自由さにずいぶん愚痴をこぼしたものであった。
 この火番で函待ちもあり、大勢人が集まるので、色々の雑談に花が咲く。間には火番のおっさんに話し上手がいて、よく笑わせる愛嬌者もいた。
 また、未成年者がタバコを吸いならう悪態もあった。昔の厳しい時代に。

 番尻、番尻の声がかまびすしい(やかましい)。「おおーい、尻から煙りが出ないうちに、(キセルを)番尻にわたさんかー」
 カンテラ時代には、ブリキ製のタバコ入れにキセルを結びつけ、トンコツと称して腰に提げて入坑していたので、(坑内でタバコが吸えないのは)一つの自由を束縛された形であった。あとむきのクラニー灯はアミばかりで、暗かった。(クラニー灯)の油は種油、また魚油(を使用)。




※捲立   捲卸から片盤曲片への入口で、空函を実函に連結しかえて捲き上げる場所。
※あとむき 後向き、後山。先山の補助者。
※クラニー灯 安全灯の一種。

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