炭坑記録画の数々
坑内労働(採炭)

田川市西南方の各ヤマは新五尺層が多い
昭和40年8月

(シモヤット硬(と)は)焼いて耐火煉瓦の源料になる)からである)
田川市の西南方の各ヤマは新五尺層が多い これはシモヤット硬(ボタ)を含んでおるボタの厚い処は高くして質堅し ボタの薄い処は六尺以下で軟い これより二七㍍上に三尺層(二尺五寸位)がある。戦時中はマイトの制限でヒトサキ二人に四発になって採炭困難 
先山は午前三時頃(明治時代と同じ)より入坑し中スカシを深くする事につとめ上下に二発づヽ発破する様にして二人で六函約三屯位掘っていた。よってシモヤット硬が粉砕せぬからカイロに立派な石垣ができていた。含み硬はよく整理せぬとカヤラン様になる(置場がない)上手な先山は見事な硬囲いをする。(位登炭坑)昭和十五。二十。
マイトは戦時中自弁であり (十八銭)(ダイ3-4 六分、二ヶ)ピス一ヶ)ミチビ二尺五寸)切羽にイワやシメが出ると現場員がマイト補助の附日役をつける 見込出炭には一函当十八銭まし(あがり)がつく。方賞与一ヶ月二十三方以上金八円 
キリチン一函壱円〇五銭 難所や膠い処は一円廿銭 
筑豊のヤマには硬(ぼた)を含まぬキリタオシの層は少なかった。

~いざり勝五郎車に乗せて ひけよ初花 箱根山 ゴットン

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