炭坑記録画の数々
坑内労働(採炭)

昭和の監獄部屋
昭和40年8月

昭和の監獄部屋

 戦時中のヤマはソリャ出せ、ウント掘れの総努力、一入前では役立たぬ。十人前も働けとツルバシ戦士に呼びかけ、あふり立てられていた。
 位登炭坑は旧態依然、大納屋制度で四、五名の頭領のうちH、S兄弟は独身者ばかり飯場で使用していた。この独身者に対して監獄部屋に近いあつかいをしていた。つまり戦争の無理もあったからである。
 他の世帯もちの坑夫は食糧不足にカコつけて、休んだりノソンしたりする者が多かったが、Hナヤの坑夫は日曜以外は純対休ませぬ。入坑すれば責任出炭一人当り三函(一屯半)積まねば昇坑させぬ。
 コノ物語ハ昭和十八年以降の事である。当時、配給米一人当り四百グラム、入坑者は特配四百グラム別にあった。但し休みは無。其他何でもナイナイづくしで、とても満足にカロリーを補えなかった事は勿論。
 ●H大納屋の作業様式
 炭柱を順次払うていた坑員は三十人、多い時は五十人。内訳、責任二人、仕繰二人、警戒二人、これ等は一人二歩、熟練先山一人二歩、次は一人一歩、后山は九歩、八歩の割合。よって平均三函出せば后山一人で八函すくいこまねばならぬ。
 一函にエビ(ブ)で五十パイいるから四百パイ抱えねばならぬ。カイロは近くても二十メートル、遠くて三十メートル以上ある。右の苦難にたえきれずケツワリが多い。その予防策として一番方は黎明より入坑、日没前に昇坑。二番方は日暮前に入坑、黎明に昇坑。入浴中も見張っておる。遅れた者は杖で突かれるので汚れたままあがる。虱もわく。
 精鋭坑夫は出征し、残る者はクズ者、老人、女坑夫。
 昭和十九年末からB29の空襲が毎晩の如く続き、坑外のキカイは停止、配函は午前二時頃になる。その頃の独身者の姿は憐れで今でも瞼に残っておる。たれを見ても栄養不良で青顔痩躯、泥水に酔うた鮒の様にフラフラとあえぎながらトボトボとエビを運んでいた。不愍、筆に表現できず。
 十九年五月七日、吉田勝(三五)が右又右五片払古洞でマイト自殺した。
 二十年六月三十日、小石原恒吉(五二)が本卸右三片払古洞でマイト自殺。其他、原因不明の落盤死も数名。
 昭和十八年十一月末、毎日新聞がツルバシ戦士を鉱員とよぶ様にした事がある。

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