山本作兵衛氏と炭坑記録画
明治期の先山・後山

男(先山)はツルバシ担ぎカンテラさげての入坑

▲入坑は午前3時。人によっては早かったり遅かったりしたようです。

 明治期のヤマの坑夫(男・先山)は、一般的に髪を短くしていると低い坑内で頭を打つということから、長めの髪の毛に手ぬぐいで鉢巻きをし、着古しの短い衣といういでたちでした。

 必需品であるツルバシを5、6挺肩に担いで、腰にはトンコツという煙草入れとキセルを差し、ブリキ製のカンテラと合油(石油と種油を半分ずつ入れたもの)、ヒヤカシボウ(カンテラを提げるためのもの)を持っての入坑です。

 入坑する時や昇坑する時にはワラジを履いていましたが、採炭中の切羽では裸足で、身につけているものは鉢巻きとフンドシだけでした。自宅を出る時には、カマドの炭を眉間に塗って三宝荒神様に安金をお願いしていたといいます。

後山の女は坑内労働のほかにすべての家事を行っていました

▲昇坑後亭主はアガリ酒。妻は家事に多忙でした。

 女・後山はというと半袖の短い上衣にユモジヘコという姿でした。頭には手ぬぐいを被っていましたが、耳を覆うようなアネサン被りではありませんでした。持って行くものは、先山と自分の2人分の弁当にカルイ(スラを引くための引き綱)、炭函につける札数枚とカンテラなどでした。

 坑内から上がると、普通、先山は直ちに入浴してアガリ酒を飲み、後山は入浴もそこそこに食事の仕度です。当時は妻の炊事を手伝うような男はいなかったそうです。今でいう愛妻家がいたならヤマで評判になって後ろ指をさされたといいますから、女の人は大変でした。赤ちゃんでもいる家はなおさらのことです。

 明治時代の女の入は、結婚するとオハグロといって、月に1、2度歯を黒く染めていたものですが、ヤマで働く女の人はその暇がなかったのか、白い歯のままにしている人が多かったそうです。しかし、女の人が忙しく働いている家庭ほど幸福ということでせん望されていたようです。それは、女房が働けない所はその日その日の生活に追われている家が多かったからです。そんな家庭では自然に子どもに負担が掛かっていました。学校にも行けずに暗黒の坑内で手伝いです。

 「七ツ八ツからカンテラ提げて 坑内下がるも親の罰」の歌詞もこのような状態から生まれたものなのです。

ヤマの生活の一枚:乗廻し棹取
 炭車を坑外に引き上げたり、坑内に下げたりする人のことで、運搬夫としてはナンバーワンの花形的存在でした。また不思議と色男が多く、おしゃれも多分にあったため、ヤマの娘たちからもてはやされていたそうです。炭車から炭車へ乗り移るさまは、妙技ともいえ、どんな人でもその見事さに驚嘆、感銘を受けたといいます。