山本作兵衛氏と炭坑記録画
炭坑の子どもたち

娯楽の少ない時代に大変喜ばれた芸人や商人

▲山の子どもたち

 「七ツ八ツからカンテラさげて坑内さがるも 親のバチ ゴットン」。明治期の炭坑の子どもたちは、今ならまだおやつをねだるような年齢の子でも、両親のどちらかが事故にあったり病気になったりして、仕事ができなくなると、家の手助けをするために学校を休んで、暗黒の坑内に下がり自分にできる仕事の加勢をしていました。

 ある人は弟妹の子守りをしたり、またある入は炭箱を押したりといった具合です。通常でも忙しい両親を助けて、刃先の修理に出しているツルバシを鍛冶屋から自宅まで運んだり、水汲み、殻拾い、ランプの清掃などの手伝いをしていましたから、長期にわたって親が寝込んでいる家の子どもは、側で見ているのも不愍であったといいます。

 電気が通じた時、手のいるランプの清掃をしなくてよくなったと大人以上に子どもたちが喜んだともいわれています。

▲男女一緒に「かくれんぼ」をして遊んでいました

 遊びには男の子がパッチ(メンコ、パッチン、ブチコともいう)、竹馬、乗り馬(乗り手が出している指の数を見ないであてるもの。数があたると交代)、コマ回し、タコあげ、ネンボウ(相手が地面にさしている小枝を打ち倒して取り合う)、戦さごっこ(竹の棒を持って日清・日露戦争をまねて戦う)、降参いわせごっこ、地所とり、魚釣り、ドジョウとりなどで、女の子はナワ(ツナ)跳び、おはじき、お手玉、お手々つないで、石けり、まりつきなどでした。

 また男女一緒に遊ぶのにはかくれんぼ、鯉の滝のぼり(向い合ったどうしが両手を組んで並び、波うたせている手の上を這い進む)がありました。娯楽の少ない時代でしたから、たまに炭坑に芸入や商人がくると大勢の子どもたちで人だかりができました。

 特に子どもが喜んだのが、蓬莱豆売り(団扇太鼓を叩きながらおどけた踊りをしていた豆売り商人)、稲荷様(カラクリの白狐を使って吉祥事を唱えていた商人)、ヲチニの薬売り(アコーディオンを弾きながら薬を売っていた人で、子どもに紙風船などをサービスしていました)、ブン廻し(1回1銭で回転させた針が止まった所にある景品をもらえる)、正月にやってくる春駒(張ぼての馬に鈴と鳴子で調子をとりながら歌い踊る旅芸人)でした。

ヤマの生活の一枚:川舟船頭
 石炭の川運搬全盛期(明治20年代)には、遠賀川水系に約7,000艘もの川舟が往来していましたが、鉄道開通以後、次第に鉄道輸送にとってかわられ、船頭はほとんどが失業に追い込まれていきました。
船頭のグチ:「陸蒸気め、おいらの飯茶碗を叩き落とした、落とされた。」