山本作兵衛氏と炭坑記録画
ヤマの郵便と新聞

昭和になって郵便物が個別配達に

▲状差しに投げ込まれた郵便物を手にとる坑夫

 明治・大正時代のヤマの郵便物は、人道坑口開坑場取締室(人事係室)の表窓下に打ち付けてあった状差に、十把一絡(じっぱひとから)げで投げ込まれていました。

 当時、ハガキは一銭五厘、切手が三銭でした。状差のなかに入っている郵便物は、昇坑者が自分に来てないかどうかを手にとって調べていくために汚れているものが多く、封筒などは破れて中が見えているものもありました。

 また、受取人不明のものも多かったようです。現在のように戸別配達になったのは昭和に入ってからのことです。

地方紙より広告が多かった全国紙

 日露戦争の始まった明治37年(1904)ごろに、ヤマで新聞を購読している人はまだほとんどいませんでした。読んでいる人といえば、役人(幹部職員)か大きな大納屋頭領くらいの人たちでした。戦争後になってようやく坑夫のなかにも新聞を手にする人がでてきたようです。

 当時、新聞には大阪朝日新聞、毎日新聞の全国紙、福岡日日新聞、九州日報の地方紙がありました。そのころはまだ夕刊はないうえに、しかも朝日と毎日は一日遅れの配達でした。ページ数は両紙とも少ない時で6ページ、多いときは12ページほどありました。全国紙は地方紙に比べて広告が多かったようです。

 福岡日日、九州日報はそれぞれ6ページ、10ページで、購読料は1カ月50銭(福岡日日)、36銭(九州日報)でした。そのころの新聞広告は何といっても仁丹が王座でした。毎日1ページほどの紙面を飾っていました。次いで有田ドラッグの梅毒専門薬、そして強壮剤次亜隣で、これは相撲取りが瓶を抱えている絵柄でした。その他、桃谷順天堂の美顔水、ライオン歯磨、都の花石鹸、大学目薬などが続いていました。

 新聞配達には現在のように新聞少年などいなくて、足に自信のありそうなおじさんがしていました。新聞は郵便と違って戸別配達でした。明治35・36年ごろ、福岡日日には太閤記が、明治39年ころ、朝日には赤穂義士伝が連載されていました。