ヤマで重宝された馬。選ばれるのは、体高が低く、力の強い馬

▲体高の低く、力強い馬が坑内馬に選ばれていました
機械力のない時代、馬はヤマで最も重宝な動物でした。麦、わら、ぬかなどを食べさせ、水を飲ませておけば人間のように不平不満を言わずにモクモクと働くからです。
昭和に入っても、坑内外を問わずに石炭を運搬する馬車を引くために重要な労働力でした。
馬を坑内に下げるのは、炭層の傾斜が約20度から15度以下のところが多かったようです。それ以上の傾斜になると、蹄鉄が滑って昇降に危険であったからといわれています。
浅い坑内では、毎朝、暗い内に入坑させ、日没にあわせて昇坑させていましたが、深い坑内になると、馬は一週間くらい坑外に出されなかったため、久し振りに地上に出てきた時には歓喜跳躍したといわれています。
馬は人間と違って闇夜でも目が見えるということなので、明暗に目を傷めることはないといいながらも、坑内の暗さと坑外の明るさの差が少ない夕方に上げていました。

▲炭箱を引く坑外馬
坑内馬は、荷車を引いたり背に荷物を乗せて運んだりする坑外の馬と比べて、作業条件が厳しい場所での労働であったため、体力の消耗も激しかったようです。
坑内は天井が低いので、できるだけ体高が低く、力の強い馬が坑内用の馬に選ばれていました。
普通、炭箱を5台ほど引いていました。充分な飼料は与えられずに水ばかり多く飲ませられていたので、痩せてはいても腹だけは膨れていました。
大正の末ごろになって、電灯や電気ポンプなどが使用されるようになると、蹄鉄の関係からか電線の漏電によって感電し、バッタリと倒れることもあったということです。
また、炭箱運送のために坑外で働かされていた馬(レール上を運搬)も、月に一度位の休日しかなく、雨の日も風の日も、焦げ付く酷暑のなかや凍て付く厳寒のなかでも、サシサシ・ドウドウのかけ声に従って、1回に炭箱7台ほどの石炭を運んでいました。
当時は、町のなかが馬の糞で臭いと言われたほど馬車が往来(往復2時間、一日に6回程度)していました。
