山本作兵衛氏と炭坑記録画
喧嘩(けんか)と仲裁

ハクがつくといわれ、男の花と思われていた喧嘩

▲当時炭坑では、喧嘩が頻繁に行われていました

 明治時代、炭坑では大納屋どうしの勢力争いで喧嘩が頻繁におこっていました。お互いに個人の恨みはないものの、親分、子分、兄弟分ということから、男の意地を通すという大義名分のもとでの決闘でした。

 男としてのハクがつくというので、喧嘩は男の花と思っているようでした。周囲の人も、お互いに大酒を飲んで酩酊しての殺傷沙汰だから罪は軽いと言っていました。

 明治30年ごろ、一番話題になっていたのは、現在の後藤寺でおこった豊前の会社の喧嘩で、戦争のような激しさであったといいます。谷を挟んで大納屋どうしの決闘でした。

▲豊前の会社の喧嘩。松岡陸平の仲裁

 一方は7百人、もう一方は2百50人という大喧嘩でした。両方の死者の数が39人にも上ったそうです。お互いにダイナマイトを投げ合いながらの決闘で、三日三晩も続いたといいます。

 この喧嘩の仲裁に入ったのが松岡陸平という人で、陣笠を被った太刀姿という出立ちでした。当時でも警察はあったのですが、あまりの勢いに手も足もでなかったのではないかと言われています。

 仲裁が入って和睦となると、仲直りの儀式があります。まず、仲裁人が正面に正座して双方の両人を自分の左右に座らせます。盃(さかずき)を両手に持って左右の手を交差させ、一緒に差して返杯。二回目は一方の腕を上下にとりかえて差します。それから仲裁人の挨拶が始まるのです。「今度は俺にまかせてくれて誠にありがてぇ、万事水に流して以後水魚の交わりをしてくれ」などと言う。すると両方から「俺の無分別からすまない」とか「俺の誤解から始まったことだ」などと侘びを入れる。

▲仲直りの儀式。中央が仲裁人

 講和が成立すると納めの盃を飲み干して、ヨイヨイヨイと音頭をとって一同拍手を3回。やがて、仲裁人は半紙に塩を包んで箸を2本添え、水に濡らして天井に投げつけるのです。それが天井にくっついてめでたく親睦散会となります。

 この儀式では多くを語らないで、酒も少々、長居はしないのが普通で、関係者もなるべく沈黙が原則でした。ただし、どちらか一方だけが傷ついている場合は、加害者側が被害者側に膏薬代という名目で、それ相当のお金を贈ることになっていたということです。

ヤマの生活の一枚:ヤマ人の縁起
 炭坑の仕事は常に死と背中合わせでした。私たち現代人には、ささいに思えることでも多くの縁起をかついでいました。朝の汁かけご飯を「ミソがつく、ケチがつく」といって嫌っていました。カラスが鳴いたり、煙突からの煙が二つに割れることを不吉と考えていました。どれも炭坑で働く人々のために絶対に守らなければならないルールでした。