山本作兵衛氏と炭坑記録画
刺青

仕事ができる一人前の男ならば刺青を入れるものとされていた

▲明治期のヤマ人のトレードマークになっていた「イレズミ」

 明治時代の炭坑には、「どうしよ 腕(かいな)の此のイレズミは、何処のいれしゃが入れたやら ドッコイドッコイ、右の腕は昇り竜、左の腕は降り竜、背には自来也(児雷也・じらいや)ガマの術、粋な姿のヤマ男」などという歌がありました。

 このころ、ヤマの男たちの大部分は、刺青を入れていたといわれています。入れていないのは新参の坑夫くらいでした。それは、刺青がないのは仕事上でも一人前とみなされていなかったからです。それで若い人たちも、たとえ仕事が未熟でも早目にスミを入れていました。

バラエティに富む絵柄中には、お墓や幽霊も

▲坑内の火番(安全地帯)で一服する坑夫たち

 前述の歌にもあるように、腕には竜の絵柄がもっとも多く、他に妖術使いや山賊の絵を入れている人もいました。背中には自来也をはじめ大蛇丸(だいじゃまる)、滝夜叉姫(たきやしゃひめ)、鬼若丸(おにわかまる)、源頼光、酒呑童子(しゅてんどうじ)、鬼童丸(きどうまる)などの絵が多かったようですが、中には信仰している宗派のお題目を彫っている人もいました。変ったところでは、お墓の石碑や幽霊などを入れていた人もいたといいます。

 女坑夫でも気の強い人は、桜や牡丹(ぼたん)の花を入れていたそうです。それを知っていて、刺青師も大納屋に長く滞在することもあったそうで、このような時には、若い人たちは先を争って入れたそうです。

刺青を入れることで、地底の魔物から身を守ろうとした

 もっとも坑夫の刺青は、地の底にいる魔物から身を守ろうとしたことに始まったと考えられています。それで竜や仏像、お題目など魔物を追っ払い、かつ近寄せないような絵柄が好まれたのでしょう。喧嘩の時に両肌(もろはだ)脱いで威勢の良い啖呵(たんか)をきるのも、強い絵柄だからできることです。

 いかに気丈で腕っぷしが強い人でも、やはり暗黒の地底で働くのは不安だったようです。だからこそ、ヤマの掟ともいえる「守らなければならないルール」が自然的に生まれました。不吉と思われるようなことや死や事故を連想するようなことを、言ったりしたりすることを忌み嫌う、ヤマ独特の縁起担ぎも行われていたのです。

 また、各地から集まってきているヤマ人にとって、自分の名前を知っている人も少ないので、ハッキリと印象づけるために自分独自のスミを入れたという説もあります。