山本作兵衛氏と炭坑記録画
明治期の炭坑の飲料水

担桶行列ができたほど水に苦労したヤマ人

▲井戸水をくむのも一苦労でした

 明治時代の小炭坑には給水(水道)設備がなかったため、飲料水は井戸や湧水にたよっていました。湧水のあるところでは、竹でつくった樋をかけて順番に水を汲んでいました。

 雨の降る梅雨ごろは、相当の水量があったものの、雨の少ない時期になるとチョロチョロといった具合で、なかなか担桶に水が溜まらなかったため、飲料水を汲みにきている人たちの担桶(一荷で36リットル、子どもの場合は大人の半分位)による長蛇の列が見事なまでに続いていました。

 子どもも10歳位になると親を手伝って水を運んでいましたが、担桶やさげおに手をかけると水がこぼれるので大変でした。

▲担桶をかついで水をくみにきていました

 井戸までの距離が遠かったばかりでなく、鉄分の多い水しか湧かないところや、枯渇しているものもあったりで苦労しました。また、夏は担桶が乾燥しすぎてタガがゆるまないように、時々、水に濡らさなければならないなど、明けても暮れても水、水で、台所をあずかる主婦は特に頭を悩ませていたといいます。坑内の労働で疲れた体にムチ打って水を汲みに行っていました。

 長時間を費やして汲んできた貴重な水であったため、一滴の水でも粗末には扱えません。米のとぎ汁を洗い物に使用することも度々で、お茶を飲むのにも気兼ねするほどでした。作兵衛氏はそのころのヤマの老人に、海上生活の舟でもこれほど水に頭を痛めることはないと聞いたそうです。

 中炭坑以上では明治の末期ごろになって、水道管による給水が開始されました。麻生系統では上三緒炭坑が最初でした。これは飲料水ばかりでなく、ボイラーの補給水にも困ったからのようです。

 山の上にレンガの大型バックをつくり、立釜を据え、エバンスポンプで押し上げていました。

 大正の初めごろ、蒸気ポンプから電気ポンプに切り替えられましたが、平均すると週に1回は蒸気ポンプを動かしていました。それは、当時、停電が度々起きていたからです。

 大手の住友忠隈炭坑では、明治32年ごろには給水設備が整っていて、納屋2、3棟ごとに1カ所ずつ蛇ロが設置されていました。

ヤマの生活の一枚:炭鉱の子どもたち
 炭鉱の子どもたちは、両親を助けて自分にできる手伝いをしていました。刃先の修理に出しているツルバシを鍛治屋から自宅まで運んだり、子守、水汲み、ランプの清掃などが主な仕事でした。家々に電気が通じた時、手のいるランプの清掃をしなくてよいと、子どもが大人以上に喜んだといいます。