山本作兵衛氏と炭坑記録画
炭坑(ヤマ)の子どもと学校

当時は学問より石炭を出せる人間になることが一番だと考えられていました

▲ヤマの子どもたちの通学スタイル

 炭坑の子どもたちも満6歳になると入学していましたが、尋常小学校4年を卒業するまでの人がほとんどでした。

 明治30年代では、まだ高等小学校へ行く人を見かけることはなく、炭坑の幹部役人(職員)の子どもでも高等小学校に行くのは稀で、中学校ともなると、坑長の坊ちゃんが通うくらいでした。

 このころは、炭坑に限らず農村でも子どもが中途半端に学問などをすると、労働意欲をなくして怠け者になると思われていたようです。今のように子どもの教育などといって学校に関心をもっている大人もあまりいないようでした。

 学問をするよりも早く一人前に石炭を出せる人間になることが一番と考えられていたのでしょう。

 子どもたちの冬の通学は大変でした。寒風吹きすさぶ雪の日でも、外套(がいとう)など身につけることができたのは、10〜20人に一人くらいでした。大部分の子どもたちが寒さに震えながらの登校でした。

▲雪降る寒い日には、ケットをかぶり通学していました

 ケットを持っている人は良い方で、普通はネルの布を五、六尺二重に折って頭から被り、風や雪を防いでいました。足袋は手縫いの紐付であったため、緩く結ぶとほどけやすく、しっかり結ぶとほどけないような厄介なものでした。下駄は緒がよく切れました。雑囊(ざつのう)は明治34年ごろ(尋常小学生は数年遅れ)から使うようになりました。それまでは風呂敷で、革カバンなど見たこともありませんでした。弁当箱は10センチメートルくらいの丸い形をしたクリモノでした。

 学校の授業料は、尋常小学校が12銭(兄弟がいる場合1人8銭)、高等小学校で30銭、中学校3円で、服装は高等小学校から袴(はかま)着用になっていました。

 男子は制帽、綿和服、鉄砲袖、女子はえび茶袴に綿和服、薩摩袖でした。中学校(男子のみ)になると小倉織の制服制帽、白の紐付き脚半(きゃくはん)に革靴になりました。

 当時の学校の先生は、厳罰主義で生徒を指導していました。朝、遅刻をしただけでも1時間は立たされました。馬の尻を叩く竹のムチを持って、何かあると振り上げていたので怖がられていました。