山本作兵衛氏と炭坑記録画
炭坑の切符と売勘場

▲現金の代わりをした切符(私製札)

各炭坑のみで通用した現金代わりの切符

 炭坑には現金の代わりをした切符(炭札・炭券・斤券などともいう)と呼ばれた私製札がありました。各炭坑が独自で発行しているために印刷方法も異なり色も様々です。この切符は坑夫の仕事の量によって支払われており、通用するのは売勘場(米、酒、塩、しょう油、みそから煙草、石けん、手拭いなどにいたるまで日用品を販売していた炭坑直営の店)に限られていました。

 筑豊で切符の発行が早かったのは、明治18年の麻生鯰田炭坑(後の三菱鯰田炭坑)のようです。一般に三井、三菱、住友などの大手炭坑より中小炭坑での使用が多かったということです。

▲売勘場

 『筑豊炭鉱誌』によると明治30年当時、切符が発行されている炭坑数は約66坑、不詳の炭坑が約20坑、現金支払いの炭坑数は6坑でした。現金の資金繰りをしなくてもよいのですから、経営者にとっては都合がよかったことでしょう。現金が必要な人には月に一、二度定めてある交換日に切符と交換したのですが、手数料を差し引いたりされていたといいますから、坑夫側からみると理不尽な制度でした。最もケツワリ(夜逃げ)やヤマカエ(炭坑を移る)をさせないように、坑夫を自分の炭坑につなぎとめておくのには現金を持たせないことは有効であったに違いありません。

 切符の偽造事件(現在のニセ札事件)もありました。炭坑の経営者が代ったとき、前坑主が発行した切符の交換を拒否したということから、坑夫たちが大騒ぎするということくらいは、度々であったそうです。