山本作兵衛氏と炭坑記録画
ヤマの機械化

田川のヤマの機械化は小松ヶ浦炭坑から

▲坑夫が高いところへ水を汲み上げて排出する「段汲み」

 ヤマの機械化はポンプから始まっています。炭鉱は水とガスとの戦いであったといわれるほど、まず水(地下からの湧水)に悩まされていたからです。

 ポンプがまだなかったころは、段汲みといって、一段高いところへ、高いところへと人が水を汲み上げて排出していました。そんなに深くない場所の採掘の時でも最も過酷な作業とされていたのに、深部採掘になると手に負えなくなります。

 水を揚げないことには人が入ることができないため、最初に機械化が行われたのがポンプなのです。

 筑豊で蒸気力によるポンプを最初に運転したのは、明治14年(1881)の目尾(しゃかのお)炭坑(現・飯塚市)で、田川地方においては、明治16年の小松ヶ浦炭坑(現・田川市川宮)に始まっています。

 水を排出させたあとに問題となるのが空気です。坑内で安心して働くことができるように入気(きれいな空気を取り入れる)、排気(汚れた空気やガスなどを外に出す)の設備のために扇風機が使用されるようになりました。以来、蒸気力によるポンプ、扇風機、巻上機などの使用が急速に広がっていたのです。それから各炭坑が独自に自家発電による発電所をつくり、蒸気力にかわって電気力を使用するようになっていきました。

▲明治・大正期のポンプ

 明治43年(1910)には国内出炭量の約48%を筑豊炭田が占めています。大正時代の初めは第1次世界大戦による石炭の需要増大で好景気でした。しかし、大正10年(1921)から昭和初期まで炭鉱界では不況が続き、炭鉱では生産性の合理化をはかって採炭能率の向上をめざし、短時間にできるだけ多くの石炭を採掘できるようにコールカッターやコンベアーなどの機械を導入していったのです。

 石炭の輸送方法も明治24年(1891)の若松〜直方(筑豊鉱業鉄道)間の開通から筑豊特有の網の目のような鉄道網が発達し、明治27年を境に今までの川ひらたによる石炭輸送よりも鉄道による輸送量が上回るようになっていきました。以後、全盛期には遠賀川水系に約8千艘も往来していたといわれる川ひらたの数も次第に減少し、昭和14年(1939)を最後に姿を見ることがなくなりました。