山本作兵衛氏と炭坑記録画
山本作兵衛氏と炭坑記録画

ヤマは消えゆく。孫たちにヤマの作業や人情を描き残さなければ…

▲絵心が芽生えるきっかけとなったカブト人形

 山本作兵衛氏は1892年(明治25年)5月17日に、嘉穂郡笠松村鶴三緒(現在の飯塚市)で生まれました。

 8歳の時、弟の初節句に知人から加藤清正のカブト人形(土製)をもらったのが絵心を芽生えさせるきっかけになりました。しかし兄弟が多かったため、弟妹の面倒をみなければならなかったことや、当時の尋常小学校には図画の時間がなかったことなどから、思うように絵が描けなかったそうです。

 明治37年5月、13歳になったばかりの時に、山内炭坑のツルバシ鍛冶に弟子入りしたのを皮切りに昭和30年1月、位登長尾炭坑の閉山まで、明治・大正・昭和と3時代50数年にわたって炭坑一筋に働きました。その後、夜警宿直員として弓削田長尾本事務所で昭和32年2月から39年1月まで勤務しました。この宿直員の時に描き続けたのが今に残る炭坑記録画です。

 「ヤマは消えゆく、筑豊5百24のボタ山は残る。やがて私も余生は少ない。」孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思いたったということです。

単に炭坑の記録画だけでなく、歴史・民俗的にも貴重なもの

 明治・大正といった手掘りの時代から、機械化が進み始めた昭和の初期までの、主として中小のヤマの炭坑労働者やそこに働く人々の風俗・生活の様子を驚くべき記憶力と繊細なタッチで描いています。わが国の基幹産業として発展を支えた石炭産業の体系的な記録画としては唯一のものといえ、単に炭坑の資料としてではなく、歴史・民族資料としても価値の高いもので、美術的にも好評を得ています。

 ここでは、平成7年9月1日から平成11年3月1日まで「広報たがわ」に掲載した「ふるさと散策シリーズ・山本作兵衛翁と炭坑記録画(元石炭資料館学芸員・森本弘行)」によって山本作兵衛氏の炭坑の記録画をご紹介します。